魔法の森は魔が巣くう、決して行ってはいけないよ。
そんな戒めが親から子、子から孫の代まで言い伝えられるほどにこの森が避けられ、忌まれ、疎まれ始めてからどれくらいの日が経ったのだろうか。
いつかは人の声が聞こえていたこの場所に今それはなく、ほどよい湿り気を有した青黒い林と、その茂る枝の隙から照らず日輪の斜陽のみが残っている。しかし、それに反してこの時期にはカッコウやホトトギスの鳴き声が聞こえてきたりと、元来の自然原風景の姿があちらこちらで確認することができた。
特筆すべきことは無いのだが、元々魔法の森には妖気や瘴気、またそれに憑く付喪神の化身などが集まりやすかった。なにせ『魔法の森』なんて呼ばれるくらいだ、名前が付く前からそうだったのだろう。
時の経過で妖気が次第に増してゆき、比例して人の姿も消えていった。ただそれだけのことだが、ここに住みその衰退をよく検視してきた彼女にとって、この変化というものは随分と悲しいものだった。
青々しい草むらを駆け回る兄弟。木陰で読書を楽しむ少女。野草を採取に来た町医者。そんな『生きる』カタチは、この森にはほとんど残っていない。
森の今を窓から見つめながら、在りし日の思いに耽る彼女。
何を以って留まり、見つめ続けるのか。それは本人にしかわからない。
「……」
本日は小雨。さらさらぱらぱらと屋根に落ち、淡白な音色の連弾を奏している。
その音を半ば聞き流しながら、アリス・マーガトロイドは新しい人形の衣装を繕っていた。本来なら机の傍でやったほうが都合が良いのだが、今日は気分を変えて窓際で外を見ながらの作業だ。そのために、わざわざ机も窓際まで引っ張ってきた。
来客が来るから窓際にいるとかそういうのではなくて、なんとなく外が見たかったからこの位置に来た。もっとも、衣装を作ろうと手元ばかりを見ているので外を見る暇など無いのだが。
「よし、上の服はこんな感じかな」
一通り下書きどおりの形に縫い終わった布を、持ち上げたりひっくり返したりして眺めるアリス。自覚は無いようだが自然に唇の端が持ち上がっていた。今回は良い出来になったのだろう。
繕ったばかりの布をソーイングセットでごちゃごちゃした机の上に丁寧に置くと、アリスは嘆息した。
「色は単色だけど、これは作り込むのに時間かかりそうね。次はスカートだから……」
ふと、窓枠の上の位置にある古い掛け時計を見る。
「こんなに時間かかっちゃったか」
振り子のリズミカルな周回運動によって強制労働させられた長短針が、午前十時半を過ぎた数字を指している。わりと早めに起きて作業していたから、どうも数時間ほど集中してしまったみたいだった。こめかみを親指で強く押して目を冴えさせるも、溜まった疲れが取れない点は否めない。
目が疲れたときは、遠くと見るとその疲労が取れるとよく言われる。ちょうど窓際にいたことだし、何気なくアリスは外の方向に顔を向けた。
「見たところで保養にも何にもならないわね、これじゃあ」
灰色の空の下、所々水溜りができているほどの小雨な天気の野外を見てもあまり疲れが取れるとは思えない。鳥や虫もこの天気の中では合唱をせず、舞台から降りて小休止。耳に入るのは雨粒が地面に叩きつけられる音のみで、その点もあまり面白くない。
しかし、この風景もじっくり観察すると面白い発見があったりする。例えば、普段見もしないような高枝に鳥の巣があったり、老木の根元に散らばった木の実から緑の新芽が出ていたりと、見れば見るほど面白い――が、そこを飽きずに眺め続けられるのは生物学者か虫好きくらいで普通の人間には蚊ほどの面白みも感じないだろう。
なぜならヒトは視界範囲内の重要事項以外には目を向けないから。
逆に、そこまで細かいところを探したら保養などにはならないんじゃないだろうか、と思ったりもした。
「ちょっと休もうっと」
アリスは遠くを眺めるのを完全に諦め、見慣れた室内に視点を戻すとそのままイスの背もたれに身を任せた。
片付けられたリビングや整ったベッドとは対照的に、壁際にある古めかしい木製の棚には大量の人形が座しており、一定方向を光の無い瞳で見つめながらずらりと並んでいる。
それは人形遣いという名前に相応しい部屋の姿だが、多少気味が悪い。
「あぁ、このまま寝ちゃいそう……」
早起きをしたことと長時間の集中力が重なって、すっかり上まぶたと下まぶたがくっつこうとしていた。理性が無理やりまぶたを引っ張り上げるが睡眠欲求に勝つことは難しい。
疲れた時に感じるまぶたの重さは無自覚ながらとても凶悪な兵器であると言わざるを得ない。起きていよう起きてよいうと自覚しているのに、どうも気づかない間にその兵器によって意識が殺されてしまう。よくあることだが、不思議なものだ。
そしてまた、大量破壊兵器によって一人の少女が犠牲になり、眠りの深みへと誘われた。
「すぅ……」
――ドンドン
「ん?」
耳に入ったのはスナップの効いたドアを叩く音。この家には彼女以外に誰も居ないからきっと来客に違いないのだろうが、ほとんど脳が睡眠状態に引き込まれているため体が金縛りのように動けない。疲れも相まって動く気にもならない。
下らない用件だったら後日来るだろうし、私にすぐ伝えるほど重要な用件なんてあるわけがない、なんてアリスは自覚していた。そもそも、それほど急に来る友人というのも数少ない。
――ドンドン
それよりも今はノック音よりも本能的な睡眠のほうに気持ちが傾いてしまっているからどうにもならない。このまま深い場所まで落ちていってしまいそうだった。
――ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド
「あああああああうるさいうるさい!」
本能衝動すら凌駕する大きな連打音。それと、さながらマシンガンの連射と言わんばかりの細かい振動。
あまりのうるささにレム睡眠直前の深みにまで眠りにつきかけていたアリスは、バンジージャンプの伸び切ったゴムの反射の如く高速で現実に引っ張り挙げられた。
バチか棒か何かを使って叩きまくっているのか方法はわからないが、とりあえずこの音をやめさせないと棚から大切な人形達が床にダイビングしてしまう。
アリスは湧きあがる焦りとイライラ具合を抑えつつ、何個かのドアをくぐり、同じ階にある玄関の前に来た。
「誰よ一体! 何の用なの!?」
一言文句を諭してやろうを勢い良く玄関のドアをぶち開け、まだ相手が誰だかわからないうちに開口一番で強い口調で攻め立てた。
しかし、そこにいたのは……。
「おはようアリ――」
バタン。
玄関の向こうに写った人物の姿を確認した瞬間、脊髄反射的にドアを閉めた。
自分と同じくらいの目線。逆光の中さらに色合いを目立たせる黒衣と、相反する色のエプロン。そしてブロンドの髪をすっぽりと覆う大きな三角帽。
そうか、こいつなら仕方が無い。いやこいつだからやりかねない。
「おーい入れてくれよ、風邪引いちまうじゃないか。乙女に冷えは厳禁なんだぜ?」
いきなり閉められたことでなんとなく察したのか、霧雨魔理沙は向こうから返事を羨望する声を上げた。後半部分はただ入れて欲しいような発言にも聞こえるが、特に用も無いなら入れる気にもならない。
適度に返答してご帰宅願おう、とアリスは考えながら諦め半分やる気半分で声に応じた。
「大丈夫、なんとかは風邪引かないって昔から言われてるから」
「私はなんとかじゃないから風邪引いてしまうぞ」
遠まわしにバカでは無いことを必死に、かつやる気無くドア向こうからアピールし続けた。
「……なんだよー、もしかして怒ってるのか?」
暫しの間の後、ドア向こうの魔法使いは先ほどの強引さとは打って変わって、猫なで声で問いかける。
「べ、べつにそんなことないけど……」
予想外の反応にアリスはドアにべたりと背中を付けて、ちょっと自分がそんな気持ちにさせたのではないかと思いつつ返答する。
そりゃあ一瞬は安眠妨害で頭に血が昇ってしまったけれど、だからといってそこまで怒っているわけでもない。もっと言えば、この頃余り彼女が遊びに来てくれなかったのでむしろ心躍るくらいのテンションになってしまいそうなのである。
だが、そこは人形の扱いは巧くても人間の扱いは不器用な人形師アリス・マーガトロイド。長年近しいと付き合いを疎くした結果、こういう場合の華麗な回避方法というか、上手な埋め合わせや会話の繋がりに導く方法がわからないでままいた。普通に面と向かって話すことはできるけど、そこに繋がる糸がちぎれた際の修理方法を彼女は未だに理解し切れていない。彼女の性格というマリオネットを操れる人はいない。
きっかけがあれば。
ただ、きっかけさえあれば彼女はこの距離感を戻すことができるのに。
強気な自我を持った人形師は『ごめん』という短い三文字の言葉が言うに言えない。言いたいのにものすごく恥ずかしくてどうにもならない。
一人心で鬱々しさが気負いする中、ドアの向こうの親友が助け舟を出してくれた。
「そっか、よかった。私はてっきり今軒先のプランターに大量の生石灰を撒いた現場を見られていてご立腹だったのかと思ったぜ」
極めて軽い調子の声で魔理沙は言った。
途端に流れる不自然な沈黙。一瞬、アリスの中の時間が止まった。こいつは今なんて言った――?
ふっと何かが頭によぎり、アリスは血相を変えて叩きつけるように強くドアを開いた。
「ウソでしょう!」
ドアを開くとそこには魔理沙が平然と仁王立ちしていたが、それを無視して押しのけて、玄関の横の死角になっている場所に駆け寄った。ここには長四角い形のプランターは数個並んで置いており、マリーゴールドやペチュニアといった育てやすく色合いの良い観葉植物を小分けにして育て、世話をしている。もちろん毎日の水遣りや害虫処理もかかさない。
園芸は人形作り以外の貴重な趣味でもあるのに、それは今この魔法使いは生石灰を撒いたと言った。生石灰だぞ、いわゆる食べ物の乾燥剤として封入されてるあれだぞ。水をかけると爆発的に熱を出すあの生石灰だぞ。
それなりに園芸知識があったアリスはわかっていたが、いくら軒先に雨よけで置いているとはいえ水は当たる。大量の生石灰をプランターに投入して雨がいっぱい当たったら――間違いなく植物の根が焼けて即死。人形の次くらい大切に育てた花たちが、そんなつまらないイタズラで死んでしまうなんて最悪なんてものじゃない。
仮に本当だったら外道過ぎる。顔と背中に雨よりも冷たい汗が伝う感触を覚えながら、プランターの中を覗き込んだ。
花たちには何も変化がない。雨に少し濡れているくらいだ。もちろん、濡れた生石灰の姿もなければ手をかざしても土からの熱も感じ取れない。
「ウソだぜ」
その声に玄関のほうを向き直ると、魔理沙はしてやったりといった感じの不敵な笑みを浮かべていた。
「は、はぁ……」
ウソ。ウソ。ウソ?
それは結局何もしていないということなのか、何も起こっていないということなのだろうか。だとしたら安心だ。何も起こっていないのならばもう慌てたり取り乱す必要もないのだから。そう思ったら体中から急に力が抜けて、雨でぐしょぐしょに濡れていた地面にへたり込んだ。それに呼応したかと思わせるように、小雨だった雨が次第に本降りへと変わった。
無事を確認して安堵の心が広がると同時に、言いようの無い憤怒の心がすごい勢いで広がってゆき、キッと魔理沙のほうを睨みつけて一喝する。
「アンタねぇ! ついて良いウソと悪いウソがあるでしょうが!」
「あ、いや、すまん。まさかそこまで大袈裟な反応するって知らなかったものだから」
冗談半分で言ったつもりなのに、アリスの予想外の反応と怒り心頭な恫喝を受けてたじろぐ。ここまでになるとは流石にやりすぎたか。
「あぁ……もうホントに……」
顔を手で覆う。一瞬泣いているのかと思ったが、よく見ると額を押さえていただけだった。疲労がまとめて頭と体にのしかかってきたのに加えて、複数の意味で頭が痛くなったのかもしれない、ただ額に手を置いて地面を見つめたまま一切動かずに水っぽい土壌を見つめている。
「えっと、とりあえずシャワー浴びたほうがいいんじゃないか?」
魔理沙もそのリアクションに申し訳無い気持ちを覚えたのか、ばつの悪そうな声でアリスに声をかける。元はといえば自分で巻いた種、イタズラで誘い出そうなんて生憎心のままにぽっと言って後ろ髪を引かせるつもりが、いつの間にか自分で自分の首をしめてしまったことになってしまったことに後悔の念すら感じ、何も言葉が出てこなかった。変に言葉をかけるとまた刺激してしまうような気がして。
「えぇ……」
感情の無い小さい声を一言発して幽霊にようにゆっくりと立ち上がると、のろ足で玄関まで戻ってきた。その雰囲気から頬を思いっきり引っ叩かれると思った。事実、ここまで怒らせて精神的ダメージを負わせているわけで、引っ叩かれたりぶん殴られたりするだけで済むならまだマシだろう。人形遣いな彼女であるから、爆弾人形を一斉に特攻させたりするかもしれない。
なので覚悟を決めて、内心とても怖さと心臓に来る何かに追い詰められらがらまぶたを強くつむった。
「……!」
足音が近づく。
既に雨が浸透しきれなくなった地面は水を吸い込んだスポンジみたいになって、その足音が一定距離を縮めるたびに、グシュリ、グシュリと靴という物体で土から水分を圧搾しながら音を濃くしてゆく。それが状況と状況の重なり方故に嫌に気持ち悪く聞こえた。
そして目の前でしぶきの跳ねる音が止んだ。止まった。雨以外の全ての時間が止まったかと錯覚するくらい、呼吸の音も間接が軋む音も瞬く間に聞こえなくなった。さらに魔理沙は恐怖心に打ち勝たんばりにまぶたに入れる力を強める。
数秒後に足音が一つ動いた。背筋がきゅっと締まり、ちょっとだけだが体が萎縮した。
だが、足音はそのまま自分をすり抜けてだんだん背後に遠く遠く退いていった、そんな気がした。何が起こったのかとちょっとだけ薄目を開いて前方を覗いたが、そこにアリスの姿は無かった。まるで幽霊が歩いたような、浅い足跡だけが残っているではないか。
これはどういうことだと周りを見渡し、最後に足跡が消えた背後を振り向くと、両手でウェーブのかかったずぶ濡れブロンドヘアーを乱暴にかき回して水気を掃っていた。
「そこにいるとアンタも風邪引くわよ。私の部屋に入ってなさい」
気配に気づいたのかこちらの見ることも無くアリスはそう言うと、背中を見せたままここから無造作に靴を脱いで廊下に上がり、二歩三歩と歩いたところで立ち止まったと思ったらまた背中で魔理沙に言った。
「ほら、突っ立ってないで」
「お、おう」
魔理沙はその空気を察して返事をすると、すぐにアリスは突き当たりの部屋にいそいそと入って行ってしまった。その後姿がどうにも気になってしまって、彼女がそこに入った後も数分間はそのまま複雑な心境で玄関に立っていた。
◆ ◆ ◆ ◆
チクタクチクタク、不問の律動を時計は刻み続ける。
過去も未来も今も全てがそこに収束されているかと錯覚するほど時の流れは普遍にして絶対。相対性理論で言うところの“熱いストーブの上に乗っていると時間の経過が遅く感じるが、美人といるとあっという間に時間が経過する”なんて解釈あるが、じっと何もせずに嫌な空間に居続ける場合の時の感じ方は前者に近い。
「……」
アリスはそのまま風呂に行ってしまったようだ。先ほど彼女が入って行った場所は、いつも人形作りをしている工房部屋でも人形が飾ってあるかわいらしい自室でもなかった。
この家の間取りは知らないが、少なくとも自分が入ったこと無い場所であるし、消去法でいってもたぶん風呂だと思う。
「……はぁ」
そして一人、少しつばの部分に雨粒の付いた帽子を膝に抱えて、部屋の角にぴったりと設置されたベッドにちょこんと腰をかけている魔法使い。
さっきのことがあるというのに、すんなりと家に上がらせてくれた。それがどうも不思議であり不気味でもあった。明らかにこっちが悪いから、この後に待っている展開には嫌な予感しかしない。
そのため緊張感が異常に昂ぶって弾けそうになる。面接の順番待ちとかそういう緊張じゃなくて物事がマイナスに進むことが確定した感じの、言うなれば悪いことをして先生を二者面談するはめになり、無音の放課後の教室で先生が来るまでネガティブなことを考えながら机に座っている心境に似ている。
いつまでもそんなことを考えながら沈みきっていたところで、アリスが部屋に入ってきた。
「ふぅ、夏真っ盛りって言っても雨が降ると少し冷えるわね。まぁ冷えてるのは気温じゃなくて体のほうだけど」
シャワーを浴びて髪を乾かしてきたのか首にピンク色のタオルが目に入り、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。服はまったく同じだから予備のものでも着たのだろう。
そのままアリスはベッドに近い場所にある木製勉強机のイスに腰掛けると、何も言わずに肘をついてしまう。
「……」
「……」
気まずい。実にやんごとなき状況で気まずさマックス。ここに『ヒーローは遅れてやってくる、それがメキシコ流だ』とか上げ調子で口上を言いながら手助けをしてくれないものかと心底思ってしまう。ああ気まずい。
この部屋には下階の工房と同じく天井近くに棚があり、製作した人形のうちの一部が同じ形で横一線に座っている。その様々な色をした数十個の瞳までもが一斉にこちらに視点を移していると思ってしまうくらい気まずい空気なのである。
とにかく何か切り出さなければ、と思って緊張した面持ちで魔理沙は口火を切った。
「ん、まぁなんだ。すまんな」
「いいわよ別に」
まずは謝罪。返答はさらに、気にしていないからと一言付け加えられた。
深く考えていなかったとはいえ、イタズラに度が過ぎたのはあの反応を見れば明らかだ。それほどあのプランターは大事なものなのだろう、こっちだって『さっきお前のホウキをぶち折っといてやったぜヒャッハー!』とか言われたらショックを通り越して殺意すら湧いてその後どんなことになるやら。
「どうせ用も何も無かったんでしょう? その様子じゃあ『なんとなく顔を見に来たぜ』って感じだし、ホントにアンタらしいわ」
アリスの指摘に対し、ご名答と魔理沙は言った。
「ちょっと材料探しにこっち来てさ。ついでに顔出そうかな、みたいな」
付け加えると、材料探しの途中で急に雨が降ってきたものだから、止むまでじっくりお茶でも飲んでヒマを潰そうと考えていたのが魂胆であった。言葉一つでああなるとは思っていなかったが、変な空気になったもののどの道当初の目的は達成されたと言えなくも無い。
「んで、ああなったわけだ。その……びしょ濡れにさせちまったし……」
「だからいいわよ別に、過去は深く気にしないタチなんだから。それに朝から衣装作りに集中していてね、気分転換でシャワー浴びられたからついでで良かったわ」
「うん」
半分やせ我慢のような、それでいて決して怒っているわけでも笑っているわけでもないいたって普通の調子で彼女は魔理沙の顔を見て言う。
魔理沙も魔理沙で深く気にするなとのことだから、いつもの調子に戻すことにした。あまり腐った姿を見せていてもかえって向こうが気に病んでしまう可能性だってあるから、声の張りも出来るだけいつもと同じくらいにしてみた。
それを確認すると、アリスも口唇を逆三角形にしてほほえんだ。さっきまで険悪なムードだったとはとても思えない柔らかな笑みでさらに問いかける。
「何か飲む?」
寸秒、目をつぶって頭をひねり質問に対しての回答を考える。別段紅茶でも日本茶でも何でも良かったのだが、せっかくなので遠慮なく面白いことを言ってみてその反応を見よう、なんて考えたて遠慮なく斜め上の回答を言ってみた。
「んー、じゃあ幕の内弁当で」
「それは既に『飲む』じゃないわね……」
的確かつ冷静なツッコミに思わず噴き出しそうになった。そりゃあそうだ。
「じゃあちょっと待って……よっ、っと」
アリスは自分の右手を開きながら顔の前に掲げると、くいっと人差し指と中指だけ折り曲げた。すると棚の上から三体の人形が降りてくる。一体は重そうな十二単を着た人形、一体は丈の長い中東の民族衣装みたいなものを着た人形、一体は表面のツヤツヤしたチャイナドレスを着た人形。いつも傍らにいる上海人形や蓬莱人形ではない別種の人形だった。
もそもそと滑空しながら一体が自分でドアを開け、残りの二体が先に出る。後を追って最後の一体も出て外からドアを閉めた。
随分と器用で賢い人形であると感心してしまうが、よく考えればあくまで“操り人形”であって自由意思での行動ではない。たぶん。その証拠に操者は真剣な相貌で、右手はしきりにスナップを刻みながら二本の指の曲げ伸ばしを繰り返していることからもうかがえる。
改めて目の前で人形操術の技を見せ付けられて、無意識のうちにその手の動作をもの言いたげな顔で眺めてしまっていた。
「……」
「どうしたのよ?」
懐疑の視線を感じたのか、アリスが尋ねてきた。
「いや、本当にどうやって動かしてるのかなぁって思ってな」
ドアと廊下を挟んだ別の部屋、まったく見えないに三体もの遠くに飛ばして操作する。同じ魔法使いの一端とはいえ魔理沙にはその原理がどうしてもわからなかった。魔法を使っているということはわかっていたがそれもどうだろうか、自分の視界範囲外の場所で数体を個々別々な行動を取らせるほどの魔力を割いたら、例えば飛行中の魔法使いだったら集中力が切れて墜落してしまうかもしれない。自動追尾する式神なら別だが。
人間だって目をつぶって真っ直ぐ歩くことは至難なのに、彼女は難なく、しかもそれを二本の指だけで動かしている。数が合わない時点からどうも摩訶不思議である。
「そうね。糸と魔力で動かしてるって感じかな?」
なんとも味気ない予想通りの返答。だからどうやって糸と魔力でそうやれるのかという事を聞きたかったのだが、多分本格的な人形遣いにでもならない限りわからないのかもしれない。もしくは、説明するには難しすぎるから体で感じるとか。
「指十本しかないのにあんなに繊細に軟体も動かせないだろうに」
「その時その時によるの。今はお茶のカップとポットを持って来させるためにちょっと集中してるだけ」
よくよく考えてみれば確かにそうかもしれない。
繊細に動かすにはより繊細に。大味で単調な動作は多少ざっくばらんに。実際問題、一点に突撃させるとかの単線的な指示だけならば二十や三十でも可能で、逆に精密動作は意識を集中させるため数体が限度らしい。と、これはアリス自身の見解であって、ウン十年やウン百年の間人形操術一筋の魔法使いはどうなのか不明だという。
「魂の無い木偶、器だけの人形にとって私が目であり脳でもあるの。だから、自分の目が三体別々に付いていると頭の中で浮かべながら操るのよ」
「へぇ、やっぱり人形遣いってスゴイな」
心から感に耐えず、目を大きく見開いて魔理沙は唸った。
「魔理沙もやってみたら?」
「いや、私はそもそも人形が作れないから無理無理」
速攻で断る。
「努力をしなさい努力を……」
少し気を良くしたのか彼女に人形遣いの道を勧めてみたが、案にたがわない事を言われて玉砕した。同じ魔法使いでも路線が違うからやらないパターンもあるが、彼女は単に諦めが早いだけだ。
この技術を知ったところで、私生活を人形に頼り切るものぐさな日常を送りかねないのではなかろうか。片手の上で踊らせるようにキレイな操術をする傍ら、もう片手で物を人形たちに取ってこさせる姿が目に浮かぶ。
「……ありえなくは無いわね」
「おーいあんまり余計な事考えてると人形が墜落するぞー」
「わ、わかってるわよそんなこと!」
盛んに動かす手が大振りになったり小刻みになったりせっせと動かし始めてから数分が経過した頃、アリスがドアに近づき手を掛けると、おぼんやカップを持った三体が部屋に戻ってきた。全員手がふさがっているために自分からドアを開けたのだと思うが、それにしてもドアを閉めている有様なのにどうやって糸繰りを行っていたのか気になる。そこも人形操術の技なのだろうか。
三体の入室を見届けると、再度ドアを閉めて窓の近くのテーブルに座った。
十二単人形がおぼんの上に二個のティーカップを抱え、身の丈と同じくらい大きなポットを持ったチャイナドレス人形がぎこちないしぐさでカップに薫り高い紅茶を注ぐ。魔理沙は何かが気になったのか、ポットをじっと眺めている。
確かに小さな妖精の動きというよりは、少しぎくしゃくした下手な人形劇を見せられているような違和感を感じずにはいられない。可動に限界のある人形なら仕方ないといえば仕方ないが。
「さ、できたわよ」
「できたというか作ったのは人形だけどな」
「そのニュアンスで言うなら、間接的に私が作ったことになるじゃない」
アリスから、もといチャイナドレス人形からティーカップを受け取って口を付けたら、その瞬間に鼻から脳に抜けるようなフルーティーな香気がせり上がってくる。いくら人形を操って淹れたといっても、本格的にヒトが作ったみたいに香り高くてそしておいしい。人形の目であり脳であるなんて言っていたが、こういう技術も操者の腕が人形に伝わっているものなのだろうか。いずれにしてもことのほか美味だったので驚いた。
本人は利き腕で絶えず操作をしていたため、ティーカップを反対の左手に持ちながら同じく白亜のカップに唇に密着させて、のどが火傷を起こさない程度のスピードで流し込んだ。
自分でもおいいしいと思ったのか、暖かい吐息をはぁとつき、文字通り二つの意味で一服したのである。
折りよく右手の先にいるポット持ち十二単人形を見て、ぽつんとささやいた。
「今ここで操る力を抜いたら、アツアツのポットがバシャアって……」
「じょ、冗談よしてくれよ。私までビチャビチャになるのは勘弁だぜ……」
やっぱり濡れたことを根に持っているのか、やたらブラックユーモアなことを言う彼女にぞっとする。ありえなくは無い話が怖い。
ぶっかけられないかとハラハラしながら宙を行く人形を眺めていた時、適当に目を泳がせていた時に民族衣装人形の靴が飛び込んでくる。いきなり珍しく、それでいてかわいいものだったので魔理沙の興味は完全にそっちに行った。
「お、この人形の履いてる靴かわいいな。ヒマワリみたいな……星柄の刺繍か?」
人形用サイズのものの十センチ程のサイズだが、小さな靴の甲には黄色の花柄に似た星が刺繍されていた。こんなにも小さいのによく作られているためか、単純な柄なのに見入ってしまう。
それを作った本人は、魔理沙の着眼点の良さに驚きつつも説明を始めた。
「その靴はね、バブーシュって言うのよ」
表面のなめらかな羊革は予想外にさわり心地がよく、反面靴裏は地面に付けても擦れないためにゴムが縫い付けてあって作りが良い。ここまで小さい場所に気を配り、なおかつ細かなクオリティを再現するその想像力と技術力はまさに脱帽である。
「香霖堂に行った時にモロッコって国の国旗があって、あまりに印象に残ったからちょっと再現してみたの」
バブーシュとはモロッコとかいう国の伝統ある靴で、この民族衣装もそれに沿った近いものを意識して作った、とアリスは言う。ちなみに衣装のソースは紅魔館地下大図書館らしい。
香霖に曰く『旗中央の五芒星はソロモン王にちなんでいる。彼は昔五芒星を刻んだ指輪を以って悪魔を封印したという伝説があるから、これもそれにあやかったらしい』とのこと。説明自体は非常にわかりやすいのだが、未知の単語が多すぎてどうもわかりにくい。わかりやすいのにわかりにくい。
それにしても紅い布地に緑の星一個とはまた簡単すぎるのではないだろうか。そりゃあ日本も白地に赤丸一個だからどんぐりの背くらべなのであるが、もうちょっと色々あったろうに。ここにこの柄を決めた人がいたら諭してやりたいものだ。
でもこの靴に刻まれた五芒星はとても綺麗で、本当に太陽みたいだと思えた。
「でも本当にかわいいよ。私だったらここまで細かいところに力を入れないから、すごい」
「そ、そんな褒めたって、何も、出ないわよ……」
素直に自分の創作物を受け入れられたことが嬉しかったのか、頬を染めてどもりながら強気に答えた。まことにテンプレートなツンデレである。
「ということは――他にも目に付いた外国の人形が結構あるのかね?」
ツンデレな反応に構わず矢継ぎ早に質問をすると、ゴホンと誤魔化すように平穏な挙動を取り繕いつつ話す。
「そんなことないわよ? 人形もその数は作るのに時間がかかるし、なんとなく主要っぽい国の郷土人形を選んで作ってるだけだから」
そういえば彼女は人形の素体から全て自分で作っていたことを思い出した。
図面を設計して、適度な大きさの木材を採寸どおりに削り出し、パーツごとに象り、目を彫り鼻を彫り髪を植え、さらに元ネタに合った衣装まで作って雰囲気を出す。その努力はもはや一介の趣味人とはかけ離れた、ある意味完璧なる人形師。
ちなみにその人形の加工はあろうことか自宅でやっており、女性の家であるのに一階の一角だけはまるで木工店みたいなおがくずと塗料だらけのワイルドな感じになっている。もちろん、その汚れや臭いが衣装に付くのは困り者なので、布一般は二階の自室であるこの部屋で扱っているらしい。さっきも作っていたのか、窓際のテーブルに黒い布の塊が裁縫道具と一緒くたにまとまっている。
「そこでモロッコをチョイスするのがなんというか独特だよな……」
「いいじゃない別に」
独特の美意識にツッコミは無用なので、その辺りで話を止めて魔理沙は紅茶を味わう作業に戻る。飲むたびにうまいと思えるのが不思議なほどうまい。
その後は地味に会話も無くちびちびとお茶を飲む時間が続いた。
最初に飲み終わったのはアリスだった。もう一杯飲もうと思ったのかテーブルにカップを置くと、巧みにチャイナドレス人形を自分の目の前まで誘導させて淡いオレンジの液体を注いでゆく。徐々に人形が意識を持つ小さな妖精メイドに見えてきた。
紅茶を飲みながら横目で見ていた魔理沙はいきなり挙動があわただしくなり、カップ内の残りを一気に飲み干したと思ったら鬼気迫る顔でぐんと胸の前にそれを突き出した。
「こっちも頼むよ!」
突然何なんだとばかりにいぶかった視線をアリスが向けると、無言の圧力でカップを握り締めた腕を前でキープさせてずっとこちらに向けている。相当飲みたいのか理由はわからないが、まぁ欲しがっているのだから仕方なしにあげようと思う。
「はい」
人差し指を一本だけ動かすと、人形がふわふわと飛びながら近づく。カップの少し上の位置に滞空してポットを傾けると、ほんのわずかにしぶきを跳ねさせて紅茶が満たされていった。
すると、カップの中身が満たされてゆく液量に比例して魔理沙は途端に脱力したようなほんわかとした表情になっていった。
「ああ、なんだろうこの不思議な感覚! 人形にお茶入れてもらったはずなのに、例えようの無いワクワク感というか愛おしさがふつふつと……」
カップの内容物をこぼしそうな勢いで悶えながら、自分で自分の体を抱きしめる魔理沙。何がそこまで悶えさせる要因になるのか、趣味の違うアリスにはわからなかった。
「――なんだかよくわからないんだけど、さっきから人形をずっと見ていたのはそういうことだったのね。小動物とかペットが自分に擦り寄ってくるような感じ?」
「そうそうそうそんな感じ! 若干違う気もするけど近い近い!」
小さい体躯なのに健気でいじらしくそしてぎこちなくお茶を注いでくれる、そんな人形が何か言い表せない癒しのパワーを感じ取ったらしい。自分よりも小さな者が一生懸命動いてくれる姿は確かにいじらしいというか、母性本能がくすぐられる感があるのは否めない。
「あー、最初は私にもあったなぁそういう気持ち」
「だろ? こうホワッとなるんだよな。言い表しにくいけどさ」
そういえば最初に人形を作って動かした時もそんな暖かい気持ちになった覚えがある。最初に作ったものだったからひどく不恰好なものだったが、初めて動かした時の感動はひとしおだった。そもそも動かす技術を会得するまでが大変だったために、やけにあっさり動いてくれたものだからそれはそれで感動的だった。
最近は完全に分身であり手足な感覚だったらからすっかり忘れていたが、そうか、こういうのを見慣れない人にとってはただ動く人形ではなく、健気でいたいけな少女にも見えるのか。アリスは再認識した。
「動かしてる当事者は、いつの間にかその気持ちを忘れているものよ。動かすのに必死だし」
「そういうものなのか?」
「そういうものよ」
彼女も人形遣いになればわかるかもしれないし、わからないかもしれない。そこまで心の中で思いながら注ぐ人形の手を止め、自分の近くに引き戻した。
魔理沙もそういうものかな、と腑に落ちない心地をしながら新しいお茶をすする。やっぱりうまい。
と、のんびりした時間を堪能していた時、窓の方からひょっこりと斜陽が差し込んできて二人はほぼ同時にそちらの方向を向いた。
「おっ……」
「止んだわね……」
本降りかと思ったら通り雨だったのか、気づかないうちに湿気た天気はなりを潜めていた。黒く重々しい色の雲は純白の衣をまとって滄海をたゆたい、まばらな雲からわずかに覗いていた日輪は雄々しい姿を白昼の空に晒していた。
まるでさっきまで暗い雰囲気だったはずなのに、いつの間にか元の鞘へ収まってお茶を飲んでいる今の自分たちみたいにおおらかで晴れ晴れとした、そんな印象を想起させてくれる青い空。
急いでアリスのいるテーブル近くの窓に走り寄って、一転の雲もとどめない外の空を見上げた。
「ほう、ウソみたいな快晴じゃないか……よし!」
何かを決心したのか、小さく自信を持った言葉を小さい声で発するとまだ飲みきっていないティーカップをテーブルに置き、そのままきびすを返したと思ったら慌しく部屋を飛び出してドタバタと階段を下っていった。アリスは一体何が起こったのかと不思議な顔をして首をかしげる。でも落ち着きがないのはあいつにとっていつものだから仕方ないか、と割り切っていた。
予想通り、彼女はすぐに戻ってきた。階段を全力で上り下りしたものだから軽く息切れをしている。が、その手には先程家の前まで乗ってきたと思われるいつものホウキと、裏側に 乾いた泥が少しだけこびり付いたいつもの靴が握られており、肩で息をつく動きに呼応するかのように腕と一緒に上下に動いている。
荷物の多い両手を見つめてから顔を上げると、彼女を目が合った。その口元は不適な感じで斜めに釣りあがっている。
どうもイヤな予感がする。
無言でアリスの傍まで来て横開きの白い窓をがばっと大きく開くと、その場で靴を片手に持ったままホウキにまたがり――。
「無限の彼方へ――」
飛ぶ気だった。
「ちょっ、窓から行くの!」
いくらなんでもそれは極端すぎるだろうとすぐに止めに入った。
荷物の状況と、雨が上がったという結果から帰るという行動は多少なりとも予想していたが、さすがに窓から飛び立って帰ろうとするのは突拍子も無さすぎる。常識はずれな彼女の思考にツッコミを入れたい。
その声に気にもとめない様子で、魔理沙は『これくらいは別に』といったニュアンスで言う。
「いいじゃないか。かっこよくワイルドなアドベンチャラーは窓から出て行ったほうが迫力あるだろ?」
特に趣旨は関係ないらしい、とりあえずそうやりたかっただけとのこと。なんという自由な発想なのだろう。
魔理沙は普通の様相だが、どちらかといえば通常一般人寄りのアリスからみれば色々と一般的な想像力から脱線した品行なので驚きを隠せない。割と長い付き合いだからこういうのも慣れっこだが、窓からご退室というパターンは初めてかもしれない。ある意味新しい発見。
そんなことをぼうっと考えている間に、魔理沙はふわりとホウキごと体を浮かせて飛ぶ準備万全のコンディションになっていた。
「また雨が降ったらお邪魔するぜー」
飛び立った瞬間にはそう聞こえた気がした。
脳で言葉を理解した頃にはホウキはロケットスタートの如く電光石火なスピードで消えてしまったので、本当にそう言ったのかはわからない。
森に材料を取りに行くはずなのに、そんなにすっ飛ばしてどこへ向かう気なのか。本当に森に来た目的は材料狩りだろうか。
それを知る本人が残像すら残さず行ってしまったので、その解答は正直わからない。
「一体何だったのかしら……」
台風のようなヒト、とは彼女のような人物の事を指すに違いない。快晴の滄海を眺めてアリスはそう呟く。
笑えないジョークを言われてずぶ濡れになってお茶して、途中途中ではしょった流れになったはずなのにこの流れには違和感も何も無かった。
それも彼女の魅力か。はたまた、それにアリス・マーガトロイド自身が慣れてしまったのか。
「私もあのテンションに付いて行ってるってことかな?」
ということは、知らず知らずにあれと同類か近い類になっていってるのかもしれない。そう考えたら、自然に嘆息が出た。はぁ、と小さく自嘲気味に嘆息が出た。
仕方ない。あれと同類なら、こっちも同じようなポジティブシンキングでいこう、とアリスはすぐに持ちなおす。
「さぁ、この衣装ができたら次は靴の製作ね。まったく精が出るわ。あいつのせいで濡れるハメになったし作業は中断させられるし……まぁいいか」
諦めたように、けれど晴れ晴れしい気持ちで言う。それも悪くないなら構わないだろうと。
「うん、たまには――そうね、たまにはこういうアクシデントがあっても面白いかもしれないわね。毎日は勘弁してほしいけど」
変化というものはたまにあるから面白い。変化は常にあると、もはや変化とも感じ取れなくなる。人形作りばかりやって日陰に閉じこもってばかりの人形師には、あれくらいの刺激が皮肉にも新鮮に感じるのかもしれない。
でなければ、あの流れでこうも早く修復されるなんて無いだろうから。
そう思いながら右手を強く動かす。指糸から伝わる無意識な命令を受けて、ふよふよと宙を漂っていた人形達がテーブルにポットやカップを置いて棚に戻ってゆき、まるで動かす前となんら変わっていないような元の位置に完璧に収まった。
ちゃんと定位置に着いたことを目で確認したところで、魔法使いが訪れる前よりもごちゃごちゃに散らかったテーブルに着き、人形達が注いでくれたお茶に再び口を付ける。
「次の作品の題名は『闊達な魔法使い人形』とでもしようかな」
一口だけゆっくりと喉に流し込んで、小声でそんなことを言う。
急にお茶の暖かさが体の芯まで伝わったのかそれとも疲れが攻めてきたのか、何故かまぶたが劇的に重くなってきて、また衣装を作り始めようとか思い立っていた気持ちが潰れそうになりかけていた。
「まぁ、もうちょっと後からやっても大丈夫よね。ふわー……」
作業を続けようとする心は、睡魔の誘いにものの数秒で屈服してしまったようである。さすが睡魔汚い。
「すぅ……」
心地よい気持ちに包まれながら、あと少しだけ、一時だけ眠ったら作業しようと心の中で繰り返し言いながら、ティーセットとソーイングセットの二つをテーブルの端に寄せて、そのまま顔をうずめる。
今日は唐突に疲れが貯まる出来事が多かった分、少しくらいは寝ても良いだろう。そんな余裕と理由の分からない嬉しさに心満たされて、アリスはまた眠りにつくのであった。