夏の空は曇る事が多い。
これは迷信ではなく科学的見解からも説明できるが、まず高気圧が上空を占拠するために地表が熱せられて水蒸気が出る。発せられた水蒸気は上空で雲の固まりとなって遊回し、あちこちで雨となり地上へと注ぐのである。暖かくなり始めた時に起こる梅雨などが代表例ではないだろうか。
逆に冬は低気圧が多く、寒さで地面が冷えるので雲は発生しにくい。よって雲は少なく乾燥し、夜は寒空の下で満点の星海を瞳に焼き付ける事が多くなる。
じゃあ夏はいつでも曇っているのかと言われれば、決してそうではなく、むしろ局所的に積乱雲が発生するくらいで基本は晴れ。日輪の照覧ある晴れの陽気。
時代と歴史から切り離された所に偏在する幻想郷においても、四季がある。人妖分け隔てなく真夏の晴れた日は暑い。各々が何とかして涼もうと趣向を凝らしている。
そして彼女も例外ではない。
「ふいー」
翼を持つ生物もいない空の一角を、幼さの残る呑気な表情で横一文字に両手を広げて飛翔する少女。長袖の白いブラウスと、その上から真っ黒なベストとスカートを装着したほぼ黒に近い姿。黒は熱を吸収するだけに、夏の気象面から考えても奇妙なシルエットである点は否めない。
まさに拡げた両手はさながら翼に。伸ばす体は推力を保つ飛行機のように。闇のつぶてを残像のように尾を引かせながら悠々と翔ぶ。
「やっぱり地上よりも飛んでいたほうが涼しいなー」
飛ぶよりかは浮くに近いふわふわとした動きで、ふわふわとした言葉を放つ。
このように一見すると少女の姿をしているがその根幹は……やっぱり少女である。特筆すべき点は残念ながら無く、言い方は悪いが有象無象にいるその辺の雑魚妖怪と大差ないものである。
あえて言うならば、闇を操る事が出来る力を持ち合わせていることだろうか。
闇を操れると聞けばどこかのボス級キャラの様であるが、実際はそれほど大層なものではない。光等全てをシャットアウトできるのは自分の周囲一・二メートル程度、しかも闇化させると自分の視界もシャットアウトするという微妙具合なのだ。
「今日はどうしようかなぁ?」
能天気。そう、じつに能天気。
この正月思考に拍車をかけた少女の名前はルーミア。誰に名前を貰ったか、いつから生きているのか、その様な事は壮大な大銀河の歴史から見れば極めて矮小で零細な事なので、気にしてはいけない。
特定の仕事や活動も無い妖怪のはしくれ相当の彼女にとって、毎日とは自由ということに他ならない。枠に囚われたリバティではなく、真の意味でのフリーダム。あちらへふらふら、こちらへふらふら。何をするのも縛られない。
それだけに暇で暇で仕方が無い。今日も今日とてどこで暇を潰すかという本当に能天気な考えだけで動いている。
「そうだ、今日は神社に行ってみようっと。お菓子貰えるかも」
頭の上に突如として電球がピカッと煌めく。まるで素晴らしいものが浮かんだのだと主張するかの如く。
今日の暇潰しの妙案が浮かんだことで、ひとまず今後の予定は考えなくてもよくなった。
別に腹が減っているのではない。いや、半分たかりに行くのも目的内であるが、夕方くらいまでは少なくとも居座れるだろうから、暇は潰せる。
そこがダメならまた違う場所へ。緊縛されることの無い働かずプーな日常なので、重要性を求める必要は皆無。
自然と足が、もとい体がそちらへ向かう。
ふわふわふらふら、悩みの欠片も感じさせないままに。
――決して平坦な道のりではなかったが。
「なー! どいてどいてー!」
「?」
ふと、耳に甲高い叫喚のようなものが入ってきた。どこかで聞いたような、それでいていつも耳にするような声である。言葉が進むにつれて語尾の発音が段々近づいてくることにえもいわれない感覚に襲われたので、そっと首だけ横を向いた。すると――。
「んぎゃ!」
「ふぎゅ!」
刹那に、ほんの刹那に目の前が真っ暗になった。
◆ ◆ ◆ ◆
額に石と石をぶつけ合ったような、音は鈍いものの強烈な痛みと共に、浮遊する力を遮られたルーミアはその勢いに任せて一気に墜落してしまった。それも頭から。
幸いにも目下には木があり、タイミング良く夏ということで葉も茂っており、十分すぎるクッションとなって全身を優しく受け止めてくれた。
「うー、ん……」
頭の衝撃が存外大きかったものの、なんとか意識はあった。弊害としては後を引いている頭痛と、ギャグ漫画みたいに視界にキラキラと流星群が散開して、とても綺麗な一点景が見えることくらいだろうか。
ルーミアは小刻みに右こめかみを拳で小刻みに叩いてみた。一発一発の響きが頭蓋骨を通して脳に渡り、伝わる度に歪曲した世界が正常な形に戻ってゆく。
意識がハッキリする頃には、もう視界の星は空の彼方へ隠れてしまったようだ。
「うー、いたたた。まだガンガンするよ」
前髪に隠れた、今一番旬の痛みが出てくる当該箇所を撫でてみる。押すとそりゃあ痛い。
硬いものではあったが尖っていなかったので、痛みは伴ったが血やケガの箇所は触った限りでは感じられない。落ちた場所も木立の藪並木だから身体損傷も見当たらず、ほっとしながら木の幹をすべり降りた。
「よいしょっと」
地に足を付け、頭を上げて自分の引っかかった枝の辺りを探した。思いのほかこの木は大きい。いや、彼女が小さいのか。どちらだろう。
夏場特有の植物の青臭さが鼻についたが、ひとまず助けてくれた大自然の驚異に感謝感激と畏敬の念を心の中で思いつつ、何の気なしに呟いた。
「なんだか昔、チルノちゃん達と木で遊んだことを思い出すなー」
チルノは彼女の親友で、妖精である。直線的で、無鉄砲で、それでいて愚直な妖精。ファンタジー世界における妖精という存在を体現している、とでも思ってしまいそうな性格をしている。
今は遊んでいないような口ぶりだが、暇な時はよくつるんで一緒に遊んでいる様子が見受けられる。
妖怪は妖精など人外種の年齢は百年や二百年なんてざらであるからして、『昔』なんて年代単位で換算されたら、本当にどのくらい昔だか分かったものではない。
「あの時は何人かで木登り競争して、たしかすぐそこの地面にチルノちゃんが――」
思い出の断片を掘り返すうちに、急にルーミアはキョロキョロとしだした。思い出の中の、最もインパクトのある思い出の断片が、この辺りに転がっていたはず。
結構昔で、それも小さい頃の遊んだ記憶、だから合っているかどうかはわからない。しかし、色々と思い出の詰まった場所に再来すると、言葉では言い表せないわくわくした感情が出てくるものだ。
二歩、三歩、見回す。この一連の行動を二回ほど繰り返したところで、思い出が一つ見つかった。
というよりも、本当に転がっていた。
「あ」
地面にまさに大の字と呼んで良いくらい、おおっぴらに四肢を投げ出した少女が倒れていた。
服は青と白の寒色基調をしたスカート状の服。そして何よりも、太陽光を乱反射する氷の翼が、その存在感を遺憾なく発揮していた。
「そう……こんな感じで一人だけ落ちた気がする」
記憶違いでなければ、昔の場所で昔の通りにぶっ倒れている。子供の頃の苦い思い出に久方ぶりに再会した微妙な気分である。
「おーいチルノちゃーん、ここで寝てるとバカになるよー」
寝ている、いや、どちらかというとのびていると言ったほうが近しい表現か。マンガ的演出をするならば目には渦巻きが、頭の上には落書きのような星が数個回転している感じに見えなくもない状況だったので、とりあえずルーミアは近づき、身をかがめて彼女の身体をゆさゆさと揺らしてみた。
何回か揺すったところで、やっと彼女は意識を取り戻した。
「うぅ、おもいでが、りょうくう……しんぱん……して――はっ!」
わけのわからない寝言を呟きながら、焦点の合わない瞳で真上を見ている。
そして、また無言になったかと思えば、途端にチルノは押さえつけられたスプリングのように飛び起きた。
「ふぅ、あぶないあぶない。あやうくあたいのキオクがやましいカコにうわがきされるところだったわ!」
内戦奮発地域か国家警備体制の厳重な国がいきなりミサイルを撃ってきそうな、随分突飛な比喩方法である。まず、どこでそんな言葉を覚えたのか。
「りょうくうしんぱんなんて、難しい言葉知ってるね」
「まぁねー」
ルーミアも意味をよく分かっていない上に知らない言葉だったので、とりあえず相槌程度に言葉を返した。チルノは相変わらず子供のように、褒められたと勘違いしたのか自身たっぷりに胸を張った。
ここで宵闇の少女は、思わぬところに気がついた。
先頃の激突。
直前に聞いた少女の声。
真夏の熱せられた地面に横たわる氷精。
これは、ひょっとするとひょっとするのか。
「あ、もしかしてさっきぶつかってきたのもチルノちゃんだったりする?」
「ん? あー、じゃあさっきぶつかったのはルーミアだったんだね。ごめんごめん、いそいでいたからゼンゼンわかんなかったよ」
「これからはちゃんと見ようね」
「うん!」
氷精は太陽の如き満面の笑みで返した。夢中になると目の前が見えなくなって、なりふり構わない行動を取る子供みたいな性格は相変わらずだ。微笑ましくて癒される。気づけば二人とも笑顔になっていたのだから、本当に不思議なものとしか言いようが無い。
「ところで急いでいたって、何かの用事?」
「そうだった! あたいさっきね、ものすっっっっっっっごくつよいワザをおもいついたんだよ! はやくだれかにみせたくてみせたくてもう、ね! ね!」
チルノはしつこいくらい腕をぶんぶん振り回して、本当に嬉しそうな雰囲気をかもし出していた。
ここまで喜ぶのも久しぶりなものだから、ついついルーミアはそれについて聞いてみたい衝動に駆られた。
「本当に? ねぇねぇ見せて見せて!」
「んもう、しかたないなぁ。えへへへ」
こういうことにはなかなかどうして弱いのか、ルーミアが好奇心むき出しにして問いかけると、至極満面の笑みで、ちょっと恥じらいを見え隠れさせながらもじもじと体をくねらせた。
「よーし、じゃあみせちゃうよー」
期待と羨望の眼差しを受けて、彼女はいつにも増して張り切った。氷精はバカだアホだ生きたクロスワードパズルだ等と散々言われてきたので、正直期待されたりすることもなかった。だからこそ余計に嬉しかった。
それに答えるため、また汚名を挽回オア返上で望まねばならない。そう思うと、無性に体に力が入った。
「いくよっ!」
掛け声とともにチルノ両足を軽く開き、立ったままの状態で少し姿勢を下げて、目を瞑った。
まるで足が地面に食い込んだような印象を受けるほどに、両足に力がこもってゆくのがわかる。おそらく前か、空か、その瞬発力を使った移動から始まるに違いない。戦闘に関してはド素人のルーミアもなんとなくわかった。
こんな障害物ばかりの森の中でどんな技が出るのか。少なくともいきなりスペルカードで遠距離攻撃とかそういうのは無さそうだが。
「……ごくり」
友人の見慣れない気迫に思わず生唾を飲み込んだ。
ふと、自分は彼女の間近まで迫ってみていた事に気づき、こちら危害が及ばないよう背後に四歩ほど下がった。何故四歩かというと、単にここが森の中なので四歩背後に下がったら木があったというわけである。
さらに沈黙が続く。自分の息すら聞こえるほどに。
鳥達も空気を読んだかのようにピタリと声を上げる事を止めた。周りを囲んでいるオバケみたいな木々のざわめきも一瞬だが消えた。
その時、集中の境地にあったチルノの瞳がかっと開き。
「……あー」
気の抜けた声で、開口一番。
「――ごめん、わすれちゃった」
謝られた。
もちろん、いきなり謝られるいわれもないルーミアには何のことだか分からず、どういうことだろうと頭上でハテナマークが大量旋回した。
「忘れちゃった、っていうのは?」
「なんか、とちゅうまでしかおもいだせない。おっかしいなぁ、さっきまでちゃんとおぼえていたはずなんだけど……」
必死に思い出そうと頭をひねるが、やはり思い出せない雰囲気である。
ここでルーミアは、ひょっとするとさっきの激突が原因なのではと考えた。双方突如として人災――この場合は妖災、いや精災か。どちらだかわからないがいきなりぶつかったもの だから、びっくりして頭が混乱したのではないだろうかと、と。それに頭から当たったならことさら可能性がある。
それがどの様な技だったのか断片的にも聞きたかったので訊ねてみると、チルノはとても理解しやすい説明をしてくれた。
「えーっと……それってどんな技だったの?」
「うん、あたいのパワーをさいだいげんにいかして、さいこうにぶつけて、とりあえずつっこむかんじの」
抽象を通り越して莫大の域に入っていたが、結局のところ最後の一言に全てが集約されているのではないかと思ってしまう。一応気づいたが、あえて何も言わなかった。
ある意味ではいつも通りの彼女らしい技であることは否めない。それも彼女らしいといえばそうなるが。
「くー、あたいてきにナイスなワザだとおもったのに!」
思い出しそうなのに思い出せない、もう喉のこの辺まで来ているのにとチルノはわめき散らす。
出そうだったくしゃみが直前で消えてしまったあのもどかしさに近い感情をどうしようもできず、とりあえず出来る事は地団太を踏む事だけだった。
「あーもー! どうして――」
足でガシガシと地面を蹴り上げていたら、どこにポケットがあるのかもわからないシンプルなスカート部分からポロリとこぶし大で長方形の『箱』型物体が地面に落ちた。
「あ!」
多少湿気があり、さらに草が生えている地面にぶつかっただけでは『箱』の蓋も開かないことだろう。
だが、いかんせん条件が悪かった。『箱』は蓋であろう頭面部分の角からすっとナナメに落ちてしまったので、地面に当たった瞬間にパカッと大口を開けてしまったのである。
さらに言えばその『箱』の臓物も悪かった。小物が一個ならば拾ってしまえば終いだが、もっと細かく、もっと多く、もっと小さい。
それは沢山のカードだった。
「あーやっちゃった……」
チルノは所持品をぶちまけてしまったチルノは、慌ててしゃがんでカードをかき集めた。
「私も手伝うよー」
「ホント? ありがとう!」
ルーミアもにこやかに答えて、友のために一緒にせこせこと紙切れを拾い始めた。
最初に手にかけた一枚のカード、実に不思議な紋様が象られていた。象られたといっても紙なので印刷されているだけなのだが、それでも奇妙であることは間違いない。
おそらくカードの背面だろうか。貴族邸宅にありそうな絨毯みたいな真紅の盤面に、これまた金色に近い黄色の装飾があった。前述の不思議な紋様だ。槍の穂先、四つ葉のクローバー、ひし形、ハートマーク、それら四種類の異なる模様が組み合わされて、中央部分に形のなんとも言えない整った装飾になっているのだ。
ひっくり返して正面部分を見ると、昆虫が一体描かれていた。
まわりに散らばっているカードも背面は同じだが正面に描かれているものが違うので、ここを見て見分けるのだろうか。
ちなみに最初に拾ったカードにいたのはカマキリだった。ピンクのハートマークに描かれたカマキリのシルエット。
「へぇ、不思議な柄のカードなんだね。スペルカードとも違うみたいだし」
そんなカードを今まで一枚も見たこと無かったので、ルーミアは思わず背面と正面を何度も何度も穴が開くほどくり返し眺めた。そのたびに口から感嘆の声が漏れる。
物珍しそうに見つめる彼女を見て、チルノはカード集めの手を休めて声をかけた。
「うん。もらったんだよ。すっごいカッコイイでしょー。あたいにはピッタリのかっこよさだよ!」
自分の所持品集めながら、こちらを笑顔で見ながら胸張って自慢した。たしかに表も裏も見事な絵柄なわけで、高級そうな雰囲気がぷんぷんする。それに“ただ”キレイなだけのカードというわけではなく、ごく微妙に魔力のようなものも感じ取ることができるが、残念ながらルーミアは魔法使いではないため詳細は分からない。
「ふーん」
「ふーん、ってなによ! あたいウソついてないよ!」
無関心そうに装って、わざとおちょくってみる。単純な彼女はすぐに反応するだろうと思ったが、案の定乗ってきてくれた。
「あはは、ごめんごめん」
あまり弄ると泣き出してしまうかもしれないからこの辺で自重した。本当にからかい甲斐があるなぁ、と不謹慎ながらルーミアは思った
しかし、こう言ってはなんだが一介の妖精であるチルノに、このような珍しくてキレイでうさんくさいカードを渡したのはどのような人物なのか。逆に素性が気になってしまう。
今はそんな余計なことは考えずに、再び辺りに散らばるカードを拾い続けた。
ぱっと見て十枚二十枚そこらの枚数どころじゃないそれ以上の数があったので、集めるだけでも骨が折れそうになる。幸いにも緑地であったことと、カードの色がスペルカードのように濃い色だったために見つけやすかった。
「これが最後かな」
ウン十枚の紙を拾っては渡し拾っては渡しを繰り返し、周囲の草間にもカードの姿は無くなった。おそらく、これが最後の一枚だろうという確信があった。
ルーミアが最後と思われるカードを渡すと、チルノは嬉しそうに片手に握り締めていたカード束にそれを重ねた。
「ありがとうルーミア、なんとかゼンブみつかったよ。たぶん」
語尾が自信なさげだが、これは仕方が無い。指の本数以上の数字が数えられないチルノに、この膨大な枚数の数が合っているかなんてわからないだろう。きっと貰った時の枚数なんて把握していないはずだ。
無論ルーミアも元々何枚あったかなんて知らない。それに、そんな広範囲にぶちまけていないはずなので、見落としが無い事を祈ろう。
「ようし、おれいに大ちゃんにもみせてないこのカードのすんごいのをみせてあげる。ええと、どれにしようかな」
至極機嫌の良さそうな顔と声調で言うと、チルノは目の前数十枚のカード束を手の中で広げてじっくりと選り好みし始めた。それを覗き込んでみると、先程のカマキリの他にもカエルやヘビなどの生物群から、首が三つある猛犬の絵柄まで実に多種多様で驚いてしまう。
それと同時に、ずっと見ているとまるで吸い込まれてしまいそうな感覚が頭をよぎった。いや、いつの間にか絵に気を取られていたと言ったほうが正確か。自分でも凝視していることに気が付かなかった。
理由なんてわからないが、直感でこのカードに摩訶不思議な魅力があるということがわかる。直感的に。
疲れているのかなぁ、などと考えているうちに氷精の選定はあっという間に終わった。
「じゃあコレかな。みててね」
選定されたのは一枚のカード。これもまた不思議な魅力のあるキレイなカード。こちらに見せてきた表の絵柄は、大きなツノを持った鹿だった。
この鹿のカードで何をするのかとルーミアは首をかしげ、絵柄と氷精の顔をもの問いたげな顔で交互に眺めた。
すると、チルノは右手のカードを天に向かって掲げて、地面を割りそうな強さの怒号を飛ばした。
「そいやっさ!」
いきなり叫ぶものだから、見えない位置に止まっていた鳥達がわめきながら飛び去ってしまう。環境音としてのさえずりが消えたことにより、周囲はより一層静かになった。
――それはまさに瞬きと同じくらいの速さだった。
本当にまぶたを閉じてまた開くまでのシークエンスの間に、目の前が真っ白になった。それが一度目のまばたき。
二度目のまばたきをすると、今度はドンガラバリバリととてつもない音と共に強烈な光が網膜を襲ってきた。
「ひゃあ!」
爆音と閃光に腰を抜かしてルーミアは尻餅をついてしまった。
これは、この音は雷?
チルノがそこにいるであろう位置から、彼女を囲むように凶悪な稲光が周回している。光が強すぎるために、その姿は後光の羽と体が合体して蜘蛛にも見えるシルエットでこちらに写った。
白と黄色が交互に射光となって周りの景色を覆い、トタン板に石を連続してぶつけたような極めて心臓に響く音を奏で、空気を感電させながら円状にバチバチと激昂するこの光景は夢か。それとも悪夢なのか。
常識外れの状況にあっけに取られていたが、じょじょに雷光は姿を消してゆき、最後にはカードを掲げて佇立しているあのシルエット黒から青へと変化して、元の彼女の実像に戻った。
鹿のカードを持つ右手を下げ、こちらと視線が合うと。
「いぇい」
余裕のブイサインを向けてきた。
「す、すごい……」
「すごいでしょ? このカードをもっていると、どのどんチカラがわいてくるきがするんだよね、ドーンバリバリーって。これだったらまほうつかいにもかてちゃうよ!」
自分の手柄のように喜ぶチルノを尻目に、目の当たりした魔力にルーミアは唖然とした。あれは何だと。何だあれはと。
原因がカードであるのは明白だった。それはあの雷がカードによって魔力を増設させたというよりは、カードが魔法を放ったといった感じがしたからである。そもそもチルノは雷系の技を使うことは出来ない、だって氷の妖精だから。
何とかとハサミは使いようだとか、天才となんとかは紙一重とかよく言ったものだが、カード一枚であんな雷を発生させるなんてちと危険な香りがする。もし使い方を間違えたら――あんな雷みたいなカードが他に数十枚もあると考えると、まして所持者が本能で動く子供みたいな存在だとどうしても気になってしまう。
「ねぇ、チルノちゃんそれ――」
これは『チルノちゃん、それ結構危ないんじゃない?』と一言でも忠告を入れたほうが良いかもしれない。そう思って声をかけたが、別なことで頭が一杯だった氷精の耳にはカケラも届いていなかった。
「はっ、そういえば『ちょーひっさつわざ』のことをわすれてた。カエルあいてにしておもいださないと!」
慌ててカードを本来入れていたプラスチック製のような長方形の硬質ケースに収納すると、彼女はこちらに背中を向けた。帰る気だ。
このままでは何も言わないうちに消えてしまうと思ってルーミアは素っ頓狂な顔で引き止めた。
「あ、チルノちゃん」
「ひろってくれてありがとうねルーミア。じゃあねー」
人の話を聞かないのは人間でも妖精でも悪いことである。結局余計なことを耳に入れないままで、さながらロケットスタートで飛び去ってしまった。
「あーあ。行っちゃった」
もう、この際何も起こらないことを祈ろう。
それに太陽はまだまだ昼にも届いていないので、後々探し出して言っておけば済んでしまう話か、と自己終了した。自分が話したところで真に受けるほどの殊勝な心を持っていたかどうかは別だが。
仕方が無いから自分もどこか暇つぶしをしようと思って首を上に向けると、キラキラと枝茂みの中で黄色く光る物体が目に映った。
「あれ?」
先程の雷の残り香かと一瞬考えたが、小さく恒常的に明かりを出すそれは雷と違うものだと理解した。
行ってみようかどうしようかと頭の中で迷っているうちに、気づくと既に木の上のほうまで飛んできてしまっていた。
特に警戒も無く光る茂みに近づいてゆっくりと木の葉をかき分けると、さっき自分が転落の際に引っかかっていた太い幹の目先に、これまた見慣れない物体があった。
「これ一体なんだろう?」
光を発していたのは拳大の置物――に似て非なる、正直どう形容したら良いのかいまいちわからないナニか。まず黄色い丸水晶みたいな球体と、その上部に木製の屋根が付いておいる。球体の下には土台のつもりなのか石の土台が装着してあった。
横から見れば、上から順に三角・丸・四角と綺麗にバランスが取れている。だが、この光といいよく分からないのも事実だ。
ルーミアは横にあった枝を強引にもぎ取り、藪から顔を出した蛇をつつくように恐る恐る触れてみた。
「そぉっと、そ〜っと」
一突き、大丈夫だった。二突き、大丈夫だった。やぶれかぶれで連続突きしてみたが何も起こらない。光もロウソク並の明るさを維持し続けているだけだ。
襲ってこない。
爆発もしない。
光が急に出てきたりもしない。
別段危険そうではなかったので枝を放り投げて、今度は直に触れてみることにした。
「んんんんんん……」
カタツムリの歩行速度と張り合ったら負けそうなくらい鈍足に腕を伸ばして、人冊子指の先っぽで小突く。熱いヤカンに触れた時にビックリして指を引っ込めるが、それと同じように触った瞬間腕を引っ込めた。
熱くもない。かと言って冷たいかというとそうでもない。
何かあるんじゃないかと警戒したが、杞憂だったようだ。安心したルーミアは謎の置物をすっと手に取った。
「うーん、本当に何だろう。明かりにも見えるけど、ちょっと違うかな」
上を下を横を斜めをとアングルを変えて、目を配っても特になし。奇妙な形の光る置物以外何物でもない。
「チルノちゃんが落と――したわけないか。本当に落としてたら、カードと一緒にポケットを確かめるはずだし」
となると、これ以外にも謎が多く残ってしまう。
置物の所持者は誰なのか。どのような役に立つ物体なのか。ライト的な何かなのか。仮にライトとなる役割を持っていたからといって、この形のセンスは正直どうか。色々分からない事が多すぎて頭がパンクしそうになった。
でも一つわかったことは、光り始めたのは『ついさっき』ということ。
なにせ、これがあったのは自分が落ちた場所の目と鼻の先にある茂みだったのだ。数メートル離れた地面から光が見えるというのに、目の前で目を覚ました自分が気づかないはずがない。それでも気づかなかったら相当なバカか、あるいは鳥目だ。
もしかしたら先刻に使ったカードから放たれた雷、あれに反応したのではないかと考えた。
理由?
そんなものは無い。ただ、タイミングが良すぎるもの。
「誰かに聞いてみようかな」
ぽつりと一言だけ呟くと、ルーミアは黄色く光る置物をポケットに仕舞いこんだ。自分の手と同じくらい大きくて、さらにこの変な形だったものだからポケットはかなりぎゅうぎゅう詰めになっている。上のほうの尖っている場所が布越しに皮膚に当たって痛い。
「いつっ……よし、じゃあ色々知ってそうなアイツに聞いてみようかな」
落し物は持ち主へ、これはどの世界でも常識。正直な心を持ったルーミアは持ち主を探すために、まずは手がかりを探しに飛び立った
◆ ◆ ◆ ◆
情報に精通する者は中立であらねばならない。
これは情報を金でやり取りする世界の話だが、そのような世界では情報屋は基本的に肩入れをしてはいけないルールがある。
西と東という二種類の相反する組織があったとしよう。どちらも大きな組織だ、狙われたら死亡フラグは回避不能だろう。
そこの情報屋は両勢力が相手を倒せるほどの有意義な情報を持っているが、それは逆に自身は極めて不利な状態にあるといっても過言では無い。有意義にさせるということは、相手に不利な状態にすることも可能だからだ。
よって両方から金を貰い、両方に情報を売る。これでお相子。それでどちらが勝つかは運と実力に因るので、情報屋に罪は無い。下手に傾かずに図太く生きる、それこそが真の世渡り。
情報に精通する者は中立であらねばならない。
幻想郷には諍いこそあれど争いは無し。まして、中立を決め込まなければ修羅場に突入する事など皆無。情報屋は中立どころか逆にいらない子扱いを受けることもしばしばある。
要因を作ったのは妖怪の山に住む鴉天狗達だ。
鴉天狗達は新聞を作る事を生業としており、そのネタとなるものの取材ならば迷惑も顧みず、おまけに裏付けが取れなければ無根拠の記事を立てるなど、外界の週刊誌『焦点』や『金曜日』も真っ青の横暴ぶりである。
情報に精通する者は中立ではなくなった。
その中で活動的かつ多くの情報を掌握しているのが、リーダークラスの射命丸文という名の鴉天狗だとか。
どうせなら多くの情報を持っていて、なおかつ記事にしてくれそうな彼女に頼みたいところだが、あれは常に新聞のネタ探しで飛び回っていてなかなか遭遇できないらしい。むしろ偶然エンカウントする回数のほうが多いなんて噂があるくらいだ。
一人、可能性が消えた。しかし情報を多く保有している人物なら、鴉天狗よりも妥当そうなのが一人いる。顔も見知った一人が。それも、下手な情報屋よりも情報があったりするものだから侮れない。
その目的のため、ルーミアはとある場所まで飛んで来ていた。
「いよっと」
飛行から滑空へ移り、中空からゆったりゆったりと降りてきて地面へと足を付ける。皆慣れたもので何気なくこの降りる行動を繰り返しているが、結構難しかったりする。
羽のある者ならば地面が近づくごとに羽の力を弱くしてゆけばよろしいのだが、ルーミアのように大多数の飛行可能妖怪は、いわゆる“感覚”で飛んでいるのでさじ加減が微妙だったりする。飛び慣れない連中の飛行風景なんて、さながら巣から飛び立った雛鳥なのだという意見だってある。
まぁ、彼女は腐っても長年妖怪をしているわけだから。
「あれ、いないのかな?」
無骨な石畳に足裏を置いてから、きょろきょろと辺りを見回した。
目の前には厳格な構えを持った社。古びているが手入れはきちんとこなされており、実に気合が入っている様子が伺える。しかし、人の気配が無い。
いつもならばアイツは、境内の掃除か縁側でくつろいているかの二択なのであるが、鳥居から見た正面視界域にはいない。裏の母屋にでもいるのだろうか、とりあえずルーミアは無垢な表情で歩き始めた。
「出かけてるなら、帰ってきてから聞いてみようかな」
辺りを見回しながらてこてこと歩いているうちに、社の本殿前まで来てしまった。
ルーミアは特に神を信仰していない。祈ることはあるが神に祈る事はまずない。
故に、人間達が何故賽銭箱とかいう箱に金を施し、太い縄の先に付いた鈴を鳴らし、何度か礼をして神に祈りを捧げているのか、それがわからないでいた。ある意味では当然の考えだ。そんなことしたって願いが叶うわけではないのに。
ふと、興味が湧いた。
人々は神に祈りを捧げる。神様に向けて。神様なんて見たこと無いのに。
ちょうどアイツも不在のようなので、本殿を調べてみようという好奇心がふつふつと湧き出てきた。そういえば、よくお邪魔するのは母屋ばかりで、本殿にはほとんど近づいたこともなかった。
どうせ誰も見ていないなら少々弄り倒すのもまた一興か、などと考えつつルーミアは歩を進めて、賽銭箱の前まで来た。
「よいしょ」
上半身を乗せるような形で賽銭箱を覗き込む。箱自体の高さはそれほどでもないが、奥行きがあるため横幅が広かった。
「じー……」
片目を閉じて中を眺めてみようと頑張ってみるが、盗難防止のためか傾斜の付いた二枚の木板が折り重なるようにして取り付けてあるため奥までは確認できない。木板上にも降り損ねた硬貨が乗っているわけでもないし、かといってわずかな明かりが入り込んだスキマにお金があるかと言われれば、首を横に振ってしまう。
「からっぽ」
つい率直な感想が、誰に聞かせるまでも無く自然と口からこぼれた。
時期的なタイミングの悪さだろうか。正月ならば多少なりとも参拝客があるが、真夏のド真ん中に御参りで小銭をこぼす者など普通はいないと思われる。その点で考慮すれば仕方ないということか。
とりあえず誰も見ていないことだし、なんとなく手を突っ込んでみようと思った。別に金を取るわけではない。妖怪に人間の金なんて必要ない。
ただ、やめろと言われたらやりたくなる習性というか、背徳的な好意に興味本意で触れてみたいというか、そんな気持ち。
「いいよね、誰も見てないし?」
有限実行。右を見て左を見て、庭から誰も来ない様子を感じ取ったところで、ルーミアは右手を賽銭箱の口に軽く手を入れた。。
が、ここという時に彼女は大きく小さなミステイクを犯した。
背後を見なかったのだ。いないと思ったから。
「こら、そこの賽銭泥棒。やるならうちの神社じゃなくて、後ろ向きでコイン投げ込むと願いが叶うとか言われている泉の硬貨でも拾ってなさい」
「ん!」
てっきり自分しかこの空間にはいないと完全に油断していたルーミアは狼狽した。まさか背後にいるとは、それもよく聞いた声の彼女が。
魔が差したとはいえ現場が現場なので、しょうがないから彼女は手を引っこ抜き、声の方向へ振り向いてむすっとした表情で開き直った。
「むー。賽銭泥棒するほど貧乏な人は、そもそも遠出してまでお金を探さないと思うけどなぁ?」
振り向き様に若干顔を下に向けていたが、相手の足が見えたところで顔を上げた。
やはり博麗の巫女本人だった。
腋の出た袖以外は巫女らしい紅白の衣装を着こなしている正真正銘の巫女、博麗霊夢。この寂れた博麗神社の正当後継者であり神主であり巫女である。専ら人間のくせに妖怪達とよく絡んでいるため、里の人間からは怖がられているらしい。賽銭箱に入った金が少ないように思えるのも、参拝客が寄り付かないからなのだろうか。
霊夢は目を細め、呆れた様な表情で言った。
「寝言は寝てから言うものよ。で、何なの? ご飯ならあげないわよ」
参拝客かと思ったのに見知った顔だった、しかも、そいつが賽銭箱に手を突っ込もうとしていたのだ。いつも多少突っぱねている態度に、微妙に辛辣さが見え隠れしているのは空気で分かった。
そうだそうだ。別に神社を調べに来たのではなかった、と内心切り替えて、言い訳がてら本題に切り替えた。
「別に今日はごはん食べに来たわけじゃないもん」
「あら、珍しいこともあるものね。アンタがメシの催促じゃないなんて」
「ちょっと見て欲しいものがあったから来ただけだよー」
「見て欲しいもの?」
「そうそう」
そう言うとルーミアはスカートのポケットに深く手を突っ込んで、太ももに角が当たらない様慎重例の物を引っ張り出した。相変わらずロウソクみたいな仄かな光が出続けている。
「森で拾ったんだけど誰の物かわからなくて。霊夢なら顔が広いし、珍しい形だから知っているかと思って」
霊夢の目の前に差し出すと、目を細めて食い入るように見つめた。暫時見続けていたから何か気づいたのかと思って期待をしたが、直後に彼女は小さく嘆息した。
「残念だけど皆目検討がつかないわ。流石の私も妖怪の持ち物までは知り得ていないのよ」
「そっか……」
彼女の顔の広さには一目置いていた。だが無意味だった。たしかに幅広く付き合いがあるとはいえ、持ち物までは知らないはずだ。
知っている可能性が一つ潰れたことが残念で、ルーミアは不承不承に置物をポケットに戻した。大雑把に突っ込んだが今回は肌を傷つけずに仕舞えた。
博麗の巫女も困った。いつもご飯をたかりに来るヒモな妖怪が、珍しく落し物を届けようという見上げた好意をしているのに何も力になれないとは悲しいものだ。
誰か知っているヤツがそんな物を持っていたか、持っていたら特徴的過ぎてすぐわかりそうなものだが。記憶を搾り出していると、はからずも一つ思い出したことがあった。
「でも、そういうインテリアデザインな物が好きな妖怪なら知ってるわよ。もっとも、アイツの持ち物ではないと思うけどね」
ぶっきらぼうに言い放つと、しゅんとしていた宵闇の少女がきょとんとした表情で巫女の顔を見上げた。
「え、誰誰?」
「紅魔館の吸血鬼。あれなら持っていそうだわ、よくメイドに香霖堂で変な物を買って来てもらっているらしいし」
湖の先にある紅い館、紅魔館。そこの主である吸血鬼は自称貴族なので、デカイ館の佇まいで沢山のメイドを侍らせている。
出資源は完全に不明だが、貴族なら金もあるし家具も良い物を揃えているだろう、という霊夢の憶測である。
彼女の勘は常人の斜め上軌道を放物線を描いて飛んでいく発想だが、この発想でいくつもの異変をねじ伏せてきた。あながち間違っているとも思えない。ルーミアの表情は宵闇の二つ名を疑わせるほどぱっと明るく輝いた。
「じゃあ、じゃあそこに行けば見つかるかな」
紅魔館は湖を超えた場所に立地している。湖はチルノの根城であり、先程会った時も湖に行ってカエルと特訓するとか呟いていたから、ついでに聞けるという見方も出来た。
同時に可能性が見えたことで思わず嬉しさが体に現れて、無意識に肩を上下に揺らした。それを見た霊夢は苦言を呈する。
「いや、見つかるというか本人の持ち物かどうかそもそも分かっていないし」
「ありがとうね霊夢! 早速行って聞いてみるよ!」
まったく耳に入っていなかった。ルーミアは黒いつぶてを振り撒きながら、あっという間に飛び去ってしまった。この俊敏さには本当に驚かされる。
「あぁ、正面から行ってもきっと突っぱねられるだけだから正攻法は――って、もう行っちゃったか。ホントあの子とその周辺の仲間達は話を最後まで聞かないんだから……」
考えてみれば、彼女の周辺で遊んでいる同年代――あくまで見た目の話だが――の要請や妖怪たちは、思考よりも先に体が出るタイプが多い。影響を受けたのか影響したのか不明だが、見た目相応の行動力には軽微ながら賞賛の拍手を送りたくなる。
一通り少女を見送った後、どうも霊夢は釈然としないことがあるのか難しい顔をして首をひねった。
「しかしどこかで見たことあるような気がするのよね、アレ。誰かが持っていたような気が――誰だったかしら?」
紅魔館に行けと言っておきながら、紅魔館ではない別の場所であれを目撃した気がしてならないからであった。覚えていないけど。見た記憶はあるけど思い出せない。まぁ、思い出せたところで追いかけて伝えるほどでもないが。あの子のことだ、ダメだったらダメだったでもう一度聞きに来るだろう。そうでなくてもたかりに来る。
もう一度、少女は飛んでいった方向の空を見る。実に快晴、実に晴天、ほど良い風。夏らしい陽気は立っていると疲れる、涼しげな風が一吹きでもすれば、その心地良さに眠気が体を襲う。
――が、さっき賽銭箱に手を突っ込んでいた光景がフラッシュバックして、癒されてた意識が吹っ飛んだ。
「……まさか賽銭取られていないでしょうね?」
霊夢はゆっくりと賽銭箱に近づき、さっと投入口周辺を眺める。当たり前だが小銭のシルエットは無い。ほっと一息。
最近は客もいないし、それにあの腕の長さだったら底まで届かない、ならば大丈夫だ思い過ごしだ、と早めに一人で自己完結した。
本当に“知らないということは”便利なことである。