夢はすべてを受け入れる。
例えば、生身で空を飛ぶ。断崖から飛び降りても無傷で済む。さも知己のように有名人と会話をする。
なぜ、現実には不可能な出来事が、夢では可能なのか。
それは、自分が無意識に望んでいることだから。
それを夢が受け入れてくれた結果。
夢はすべてを受け入れる。
「……む…………」
年季の入った本棚と、新旧様々な本に囲まれた部屋の中で、老人は目を覚ました。
中途半端に眠りに落ちていたのか、いまいち視界がはっきりせず頭も働かない。
そのような状態にもかかわらず、先ほどまで見ていた夢の内容は気味が悪いほど鮮明に記憶していた。
眺望絶佳な花畑、吹き抜ける風。そこで見目麗しい少女と致した一連の……。
思い出すだけでも気恥ずかしく、すぐにでも忘れてしまいたいくらいだった。
『夢とは無意識からのメッセージである』などと唱える学者がいる。
それならば、淫猥な夢を見たら自分がそうしたいと無意識に思って、せっつかれているということになるではないか。
そんなわけは無い、と老人は内心強く否定した。
「アイゼクト様、新しい資料が届きましたよぉ」
どこかで聞いたことのある女性の声。近くから聞こえる。まだ意識ははっきりしない。
「ん……うむ」
鼻から息を思い切り吸い込んで、吐き出す。古ぼけた紙のにおいがした。
やがて、この芳香を感じたことでおぼろげだった意識が正確な形を成し始めた。
ここは王立図書館の司書長室にある一角で、老人は司書長だ。
頼まれ仕事で調べ物をしていた途中であり、突っ伏して夢にうつつをぬかしている場合ではない。
「珍しいですねぇ。アイゼクト様が居眠りなんて」
大量の書物を抱えた女性が、机の端々に本を並べ置きながら言う。机は調べ物の資料で乱雑になっており、並べるというよりは隙間にねじ込むといった表現が近い。
この女性、メルヤ・マイエルは王立図書館司書長補佐である。
年若いが知識人であり魔法にも長ける。多少うっかりな部分もあるが、基本的にすべて万能にこなせる。凡人が羨むほどの秀才だ。
だからこそ、王立図書館という場所での職に就けたのかもしれないが。
「夢まで見た」
「もっと珍しい」
彼はよほど完璧超人か、もしくは堅物に捉えられているのかが如実にわかる一言。
メルヤはくすくすと笑いながら、彼の隣に坐して資料を整理し始めた。小馬鹿にされているのかもしれないが、殊に悪い気はしなかった。
この軽い会話をしていて、ようやく気付く。
動悸を感じ、背中は嫌に汗ばんでいた。
今見ていた夢は、どちらかといえば良いものであったはず。しかし、この体調はさながら悪夢を見て飛び起きた時のそれであった。
歳のせいか、こんな場所で寝たせいか、いずれにせよ今のところは気にする必要も無い。
「どんな夢が知りたいか?」
手元の本のページを何と無しに視界に入れながら、老人アイゼクトはつぶやく。
「知りたいですぅ!」
「というか、アイゼクト様が夢なんて、なんかびっくりですぅ」
好奇心の塊が、先と同じく無邪気な意見を述べる。
今回も小馬鹿にされたようなことだったが、前と違って癪に障った。
悪気が無くとも『びっくりです』は聞く人によっては嫌味に捉えかねない発言でもある。アイゼクトがまさにそうだ。
もちろん無垢な感情で聞いてきたに違いない。彼も齢を重ねたとはいえ、物事を曲解するほど頭は固くなっていない。
むしろ、お返しに少々からかってやれば面白いのではないかと考えた。
司書長は彼女に向かって自嘲気味に言い放った。
「女と交わっておった」
「へ?」
「色のある夢じゃ」
ふと、メルヤの顔を覗く。何を言っているんだろうといった、きょとんとした表情。
数秒経ったところで彼が言ったことの意味を理解し、途端に顔を紅潮させた。
「ふわ……ゎ……」
「……えっと……さ……さすがアイゼクト様……お若い……」
目を白黒させるなんて言葉があるが、それを体現したような初心な反応をするメルヤ。
羞恥心だから目を合わせようとせずに、それに対する返答もかなりたどたどしかった。
アイゼクトは、見事してやったことで優越感を得ていた。
が、それもすぐに嫌悪感に変わる。
部下の異性に立場を利用し、不埒で不道徳な発言をかけて楽しんでいる自分。そういったものは俗に下衆と呼ばれる。
寝起きの頭で自分しからぬ行動をとってしまったことへのやり場の無い苛立ちは、己の調べ物に向けられた。
夢魔。
人に淫靡なまやかしを見せつけ、堕落へ誘い精を奪う魔物。
という伝承の、誰も見たことの無い空想上の産物。
当別な立場の人間しか閲覧できないような書物を引っ張り出して、穴が開くほど調べているのがおとぎ話の生き物とは。老司書はそう思っていた。
かのグルッペン国王たっての依頼でなければ、このような案件など一蹴するアイゼクトであるが、立場上やむを得ず引き受けてしまったのだ。
「ふん! こんなものの研究なんぞさせられとるからじゃ!」
目立った情報も無く、読めば読むほど無駄骨になる現状は、経験を積んだ老司書にすら堪えるものだった。
何より、こうなることが予想できた上で引き受けてしまった自分が腹立たしかった。
大なり小なりの憤慨を込めて、資料のひとつをメルヤの前に乱暴に叩き付けた。
「あ、あ、ダメですよぉ。夢魔の資料は貴重なんですからぁ」
本を粗雑に扱われたメルヤは慌てて状態を確認する。どうやら特に傷は付いていないらしく、ほっと胸を撫で下ろした。
癇癪を起した老人はさながら子供である。当然、その対応には大変な苦慮を伴う。
社会経験も人生経験も浅い彼女にとっては、なだめることすら至難の業だというのは想像に難くない。
なだめる言葉をかけようにも上手い会話が思いつかなかった。
アイゼクトもアイゼクトで、元はと言えばこの憤りは自分のせいなのだから、逆に怒れば怒るほど自分を辱めるだけ。
とかく冷静にならねばいけない。
「実在しない魔物の資料なぞ、何が貴重なものか」
心情をごまかすように、一言だけ彼女に向ける。
実際その通りなのだ。誰も見たことも無い空想上の産物を乗せた本に価値など無い。その時点でそれは資料とも言わない。
現実に徹する固い思考に対して、メルヤは反論した。
「え〜、でも賢王様が調べて対策しろって言ってるんだから、ホントにいるんじゃないですかぁ?」
おっとりとした、しかしそれでいて非常にはっきりとした意見。
小説大好きな本の虫でもある彼女らしい、柔軟な答え。
アイゼクトはわざとらしく大きめに嘆息した。
見たことは無いが、見たことが無いだけでいるかもしれない。その曖昧で適当な発想には到底同意できなかった。
「ああホントにいるじゃろう。青い男どもの夢の中にの」
多感な若者達はこう考えるだろう。
絶世の美貌を持った理想の女性が、自分の物にならないだろうか。そしてその女性と添い遂げたい、と。
彼も少年期と青年期があったので、そう想像する気持ちもわからなくもない。
ややもすれば、この夢魔とはそのような夢や妄想から生まれた創作なのではないだろうか、とも思う。
「あの若造めが、何を考えているかわからんわ」
賢王。
若く強いが、彼も男だ。昔そんなことを考える暇も無く、余裕が出てきた今になって遅い思春期でも到来したのか。老司書は鼻を鳴らす。
王族をこうも侮蔑すると何があるかわからないが、心の中で思うだけなら何も言われない。
近頃は秘密裏に何かを進めているといった噂もある。まさか夢魔が本から出てきて侵略するとでも思っているのだろうか。彼の行動は読めない。
「アイゼクト様も今えっちな夢見てたんじゃ……」
ここに来て、メルヤはとても痛いところを突いてきた。
つまりは人のことを言えないじゃないか、と言いたいのである。
詳しく話していなければ言い訳や言いくるめも可能だが、彼は女性と交わった淫夢を見たとはっきり言ってしまった。
こればかりは返す言葉も無い。若者達の思考が下品というのなら、夢魔を調べて淫夢を見ていた自分も同類だ。
「夢魔なぞ出てきとらん」
まるで子供の口喧嘩のごとく、真っ向から否定した。
淫夢は見ていた。しかし、夢魔ではない。それを主張した。
それを聞いたメルヤは、黙るどころか食い下がってきたのである。
メルヤ「じゃあ、お相手はどなたですぅ?」
夢魔が出てきていないのなら、では何か。既にこの段階で選択肢がなお狭められていた。
メルヤは燦々と瞳を輝かせて、事の委細を探ろうと必死だった。
好奇心が先行しているから気付いていないだけかもしれないが、これはもう猥談である。
女性と老人が、夢に見た淫猥な出来事を静かな図書館の密室で楽しく話しているのである。
アイゼクトは正直うんざりしていた。これ以上話すのが面倒というのもあり、どうして部下に自らの恥ずかしい夢を懇々と説明しなければいけないのかとも思っていたからだ。
「……さぁのお」
もはや何とも思われても陰口を叩かれても良いと思う部分まで来ており、なかば強引に話を切った。
仮に話すとしても、あの少女、そして自分。話せるわけがない。
「え、あ、まさかぁ……」
含みのある言い草にメルヤは何か考え込み、すぐに顔をぱっと上げたと思うと。
「わあ、やだぁ〜♪」
両頬に手を当て、再び顔を紅潮させながら体をくねらせた。
どうやら多感な若者は男性だけでは無いらしい。
「……何か勘違いしとらんか?」
何かぶつぶつ言いながら一人で勝手に舞い上がる部下を冷めた目で見つつ、老司書は呆れ果てる。
小説ばかり読んで想像力が豊かになるのは結構なことだが、いかんせんこうなると話は違う。この娘の将来が非常に危うく感じたアイゼクトであった。
「まあよい。もう行っていいぞ」
「はぁ〜い」
退室をうながすと、顔を紅潮させたままで彼女はそれに応じてくれた。彼女には彼女の仕事があるわけで、ここでゆるい会話を続けているわけにもいかない。
入口扉に向かった彼女の足取りは軽やかというか、完全に浮ついていた。
入ってくる時に持ってきた書物が無くなったという以外にも別の理由があるのが、言わずもがな。
彼女がそこまで行ったところで彼は再び資料に目を通そうとしたが、今々ドアに迫ったメルヤがこちらに向き直っていることに気付く。
寡黙な老司書に向かって、にやけ顔のメルヤはこう言った。
「アイゼクト様、あんまりえっちなのはダメですよぉ♪」
それはそれはとても嬉しそうな表情で。言い終わるとすぐにドアをくぐって出て行ってしまった。
子供に言い聞かせる母親のような言い方。物腰丁寧な性格と話し方もあって、想起するのはその印象だった。
「……アホめ」
司書長室に静けさが戻る。
わずかな音も一切無い空間に、アイゼクトのぼやきだけがこだまする。
優秀な人間は基本的に何かが常人とずれている、なんて話はままある。メルヤはずれてはいないが、偏っている。そう思わざるを得ない。
ようやく一人になったところで、彼は席を立ち上がる。散らばった中に届けられた新たな資料を検めるために。
「……夢魔……か…………」
無数の蔵書の中から、適当に取った一冊を開く。他と同じ、見たことも無い生き物の資料。
夢魔など幻想。誰かが見た夢の一端。
現実には存在しない。いるとすれば、その名の通り夢の中だ。無意識下で望んだ欲望が具現した泡沫的な幻影。ありえないのだと一片に至るまで否定した。すべては夢によるものなのだと。
しかし、この後彼は見ることになる。夢を。
終わりの見えない夢を。泡沫的な幻影が具現した、醒めない夢を。
それが彼にとって悪夢ではないことを、ただただ祈るばかりである。